2010年11月30日火曜日

日本の行政システムは非効率か?

                                                                                             ・・・このブログ全体の目次
                                                                           (23.7月下旬に「参考」など若干コメントを追加

    日本では、しばしば日本の行政が非効率であることが前提に議論が行われている。しかし、その前提にはデータの根拠がない。居酒屋でよく聞く?程度の事実認識から出発して、学者や政治家がもっともらしい議論を積み上げている。
    しかし、仮に日本の行政が実際にはそこそこ効率的であるなら(最下段の参考参照)、効率的な行政を『削って』生じるのは、行政サービスの低下である。
                                                          ・・・・・・・・・・

    さて、(地方)分権の程度は、一般に「集権ー分権軸」で評価する。これは国と地方の間で国の権限の強さの程度を表す。行政学では、これに、「分離ー融合軸」の観点を加えて評価する場合がある。
  「分離」とは、国の事業の執行が地方団体に依存していない状況を表す。具体的には、国が地方に出先機関を置いて直接事業を執行する形態である。

  一方、「融合」とは、国が、事業の実施を地方団体に補助したり委託したりして執行している状況を示す。補助金行政といって、地方分権に逆行するとか、補助金申請交付手続きや要件の確認など無駄な仕事が多いともされる。

  一般に、米国や英国分権的かつ分離型の国。対して、日本やドイツは相対的に融合型の傾向が強い。

  この図は(少し古いが)、縦軸に人口千人当たり公務員数、横軸に(国+地方団体の支出総額に占める)国の直接支出の割合を示している。縦軸は低いほど効率的、横軸は左ほど融合的、右ほど分離的というか国の役割が大きい。
  公務員数は、福祉サービス等を直接公務員で行うか、民間にやらせるかでも違うので、断定はできないが、次のことが言えそうである。・・・反論がありそうだが。
(人口千人当たり公務員数が少ないほど効率性が高いと考えると)
① 日本の行政システムは効率性が高い(少なくとも低いとは言えない)。
② 国が直接サービスを提供している割合の高い国の行政の効率性は低い
②B 地方団体がサービスを提供している割合の高い国の行政の効率性は高い。
③ つまり、大きい組織が直接サービスする方が常に効率的であるわけではない。
    これは分権論に有利である。
④ 一方で、国の関与が強い「融合型」の方が効率的に見える。

  以上からは、【限定された議論に過ぎないが】アバウトに、分権型かつ融合型のシステムが効率的に見える。

   最後に、なぜ国が地方出先機関をおいて直接執行するよりも地方公共団体に執行を任せた方が効率的かと言えば、その理由は議会の存在である。議会の形骸化、形式化、無力を言う声が高いが、議会の存在は、行政に常に無言の圧力を加え続けている。首長や管理職は、議会がどうみるかを常に意識しながら(議会で取り上げられるかどうかに係わらず。そして万一取り上げられた場合にも、批判の的にならないように)政策立案や意志決定を行っている。

    こうした意味で行政の中で、「本庁」「本省」と「出先機関」の緊張感の差は極めて大きい。当然ながら、出先機関には「議会、国会がない」し、選挙で選ばれ住民やマスコミを常に意識している議会議員、首長から遠いのである。まして国の地方出先機関は、物理的な距離も、組織的な距離も極めて中枢から遠い。この結果、出先機関は、権限も責任も小さい一方で、効率性や仕事の質を高める方向の圧力が常に弱い。

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参考・・・・・・本川裕氏の「社会実情データ図録」の関連するグラフを参考に次に掲げる。

 大きな政府小さな政府(おおむね2005年データ)
      ・・・日本はOECD諸国中で、公務員数規模で最小、財政規模で5番目に小さい政府

 OECD諸国の公務員数(おおむね2005年データ)
     ・・・日本は先進国の中では最も少ない。
    これが統計的には最も信頼性が高いが、外に総務省統計局や野村総研の推計もある。
    公務員の範囲・定義、対象国が異なるためにずれがあるが、日本が少ないことは変わ
    らない。

3 OECD諸国の公務員給与水準(おおむね2005年データ)
       ・・・「この図録は2010年10月9日から11日にかけてネット上で大きな反響を呼んだ。」
     「この図は不当であるという批判の論拠となっている点について言及しておこう。」
      として、末尾に追加コメントが掲載されている。

2010年11月28日日曜日

「『重不況』の経済学」(新評論)2010年11月下旬刊


重不況の経済学」という本を新評論から出しました。

※ → アマゾンの「重不況の経済学」のページ(厳しい書評も)

     アマゾンの書評で・・・、例えば読みづらいというのは、主に、第1章第2節に原因があると思います。そこでは引用等が錯綜しているために確かに読みづらくなっています。
    ただ、経済学に一定以上の知識がある人の中には、①取り扱っている内容が広範にわたり、②着眼点が非常におもしろく、③刺激になる部分がある、④特に第3章は見たことがない説明・・・と言っていただいている方々もいます(①〜④はそれぞれ別の方のコメントですが・・・(社交辞令もあるとは思います))。

1 内容の核になる視点は、次のとおり、素朴かつ単純です。
 核となる視点は、
① 従来、経済学では新古典派成長理論RBC理論をはじめとして、経済成長等を供給制約の視点から捉える傾向が根強かったと考えます。これに対して本書は、経済の体系的理解の基盤に、需要制約の観点を組み入れようと試みています。・・・おおむね第2章

② そこでは需要制約(不足)の機序が問題となりますが、これについては、まず理念的には、実体経済で生産された財・サービスが円滑に売れるには、広義の生産コストとして支払われた資金がすべて、そこで生産された財等の購入に使われる必要があります。しかし、本書では、その一部が土地購入などの資産投資の形で金融・資産経済に「漏出する一方で逆方向の「還流」が不足するために、実体経済の生産物の需要が不足する(場合がある)と考えます。こうした観点から、本書ではセイ法則の破れの変動に積極的に注目し、フロー(実体経済)ストック(金融・資産経済)の循環関係を再整理しようと試みています。・・・おおむね第3章

③ また、「実体経済」と「金融・資産経済」では、市場参加者の目的に違いがあるために効率的市場仮説の成立の程度が大きく異なると考えます(なお、従来から効率的市場の制約理由とされてきた不完全情報や経済主体の不合理な行動による説明は基本的に両経済を区別しません)。また、このことや、漏出・還流の変動に与える影響のメカニズムしたがって影響のタイミングにも違いが大きいことから、両経済を従来よりも相対的に分離したものとして捉え、より独立性の高い存在として扱うべきことを主張しています。・・・主に第4

④ 本書は、経済現象の多くの部分を、この純漏出(=漏出−還流)の変動によって単純に理解しようとします。当然、こうした理解は、金融政策や財政政策また産業政策のあり方の議論に様々な示唆を与えます。・・・おおむね第4章以後

   なお、第1章は、まえふり、導入的な部分で、日本経済の現状と、構造改革の結末を整理していますが、若干、構造改革派に対して批判的なので、抵抗感のある方もおられるかもしれません。
 ※この第1章で使用したグラフの一部を、このブログの「名目では構造改革期に世界シェアを半減させた日本経済」に掲載しています。

2 目次

第1章[日本経済]沈みゆく日本 ー構造改革と長期停滞ー
 第1節 2000年代日本経済の劇的地位低下
 第2節 構造改革派が考える日本経済の停滞論の検証

第2章[経済成長]ボーモル効果 ー生産性と経済成長ー
 第1節 生産性、景気循環と経済成長
 第2節 ボーモル効果、不均等な成長と新たな経済成長理論
 第3節 プロダクト・サイクルと付加価値成長のメカニズム

第3章[経済循環]セイ・サイクル ー漏出と貨幣の流通速度ー
 第1節 漏出のある「セイ・サイクル
 第2節 漏出からみた「貨幣の流通速度
 第3節 漏出のあるセイ・サイクルで見た経済循環

第4章[貨幣と経済]価格投資 ー金融・資産経済と実体経済+「バブル」ー
 第1節 金融・資産経済と実体経済で異なる市場のメカニズム
 第2節 過剰資本の弊害:先進国の成長、経営の短期志向化
 第3節 実体経済と金融・資産経済の関係のあり方(両者の分離)

第5章[先進国経済]非価格競争 ー先進工業国と非価格競争戦略ー
 第1節 世界経済における先進工業国の意義と直面する課題
 第2節 高付加価値と「非価格競争」
 第3節 非価格競争戦略

第6章[政府]北欧型政府論 ー需要不足と政府支出ー
 第1節 政府と一国経済
 第2節 重不況,短期の不況への対応
 第3節 長期的な需要の趨勢変動と北欧型政府論

補論[経済学理論]フリードマン対ガリレオー経済学の再構築ー
 第1節 理論・仮説の確からしさ
 第2節 「仮定」の妥当性と「仮説」の妥当性
 第3節 科学の発展と「大統一理論」

参考文献

2010年11月25日木曜日

名目では構造改革期に世界シェアを半減させた日本経済

                                                                                ・・・その他《このブログ全体の目次
  修正:グラフだけでなく、少し説明を追加しました25.1.9
関連項目:重不況の経済学 公共事業

1 世界経済に占める(ドル表示で見た)日本の名目GDPの比率は、1997年〜
 2007年の10年間に次のように半減しました。

注1)ドルベースの名目値で比較
注2)1997と2007の為替レート(円ドル)はほぼ同水準

2 原因は、次のように、この10年間にG7の他の各国が経済規模を53%から
 103%拡大させたのに対して、日本は、わずかに1%しか拡大しなかった点に
 あります。・・・これは、一人当たりなので、厳密な経済規模拡大の差はさらに大きいことになります。


3 これは、OECD諸国中の人口一人当たりGDPの日本の順位が小泉構造
 改革期間中に次のようにコンスタントに低下したことに対応しています。
(補足)
円安 なお、小泉構造改革期間中は、円安が進行していましたので(これら
 は比較のためドル表示ですから)この影響もあるわけです。たしかに円高
 が進んだ近年は順位が上昇しています(もっとも、理由は円高だけではないです)
  しかし、上昇も限定的です。その理由は、中段のグラフに見るように、
 日だけが名目GDP成長をまったくしていない点にあります。たしかに
 日本は、この期間に(相対的には)縮んだのです。

物価 もちろん、物価上昇が小さいかマイナスだった点もあります(これら
 のグラフは名目値での比較だからです)。しかし、低い物価上昇率は本来
 であれば、日本の国際競争力の強化に寄与し、日本経済の力強い成長に結
 びつき、高い実質成長が実現したはずですが、まったくそうはなっていま
 せん。・・・いまだにアップアップしてるわけですから。
  物価上昇率が低いかマイナスだったことは、何の意味もなかったし、む
 しろマイナスだったと言えるでしょう。

生産性 一人当たりGDPとは、投入産出の構造から言えば、広い意味で一
 国の「生産性」を意味します。構造改革期間中、企業の人員削減で、生き
 残った企業内の生産性は上昇したかもしれませんが、企業から吐き出され
 た失業者や遊休化した資源の増加によって、日本の国全体の生産性は低下
 しのです。

※2010年11月刊『「重不況」の経済学』(新評論)http://amzn.to/htYtN1 の導入部《第1章》のための図の一部

2010年10月21日木曜日

財政出動論1 デフレ脱却に対する財政出動の有効性

関連:4橋本改革 3大恐慌期金融政策 2なぜ財政出動? その他: 財政出動論目次
                                                    このブログ全体の目次
 
《概要》支出」ベースのデータに基づいて大恐慌期の財政出動に有効性がなかったとする見解について、実質的に経済活動に影響を与える「発注」ベースの視点が欠けている問題があることを指摘します。・・・・

     現下の日本の長期停滞対策としての財政出動の有効性については、クラウディング・アウト効果、変動相場制下等でのマンデル・フレミング・モデルに基づく理論的な否定論(+不況期の経済政策に関する統計的な実証分析)などのほか、歴史上の個別事例の実証分析による否定論がある。

 田中秀臣・安達誠司[2003『平成大停滞と昭和恐慌』(日本放送出版協会)については、いわゆるリフレ政策を主張する立場から書かれたもので、日本の長期停滞に係わるマクロ経済政策と構造改革主義との関係など納得できる議論が多い。
 しかし、その中で一点疑問点があるのでここでふれたい。

 (具体的には)、図表4-488ページ)を見ると、大恐慌期の米国の消費者物価と政府の財政収支の推移を(月次で)比較すると、景気が反転した1933年は物価上昇が先行し、半年ほど遅れて財政収支赤字が上昇している。このため、財政出動による景気上昇で物価が上がるという因果関係は成立していないという。つまり、財政出動の効果は、これからも否定されるとする。















 しかし、経済活動の実態を考えれば、これは誤りであるように思える。

 そもそも財政収支は支出ベースで捉えられる。ところが、財政出動の効果は発注段階で発生する。企業は、受注と同時に原材料や中間財、建設機械等を発注し、労働者を集め、建設や生産を開始する。つまり、政府支出以前に、発注段階で資金循環が拡大し、それは資材価格や賃金に影響を与える。したがって財政出動の影響は、支出ではなく契約ベースで見なければならない

 政府支出の原則は、実績を確認してその後に支払うというものだから、経常的な支出以外の支払いの多くは発注から半年〜1年は遅れる。しかし、景気刺激効果は、発注段階で生ずる。

   つまり、このグラフは、むしろ財政出動の効果を示していると解釈することが可能であるように見える。少なくとも、これをもって、財政出動の有効性を否定することはできないのではないだろうか。

   著者が金融系の先生(金融系の安達先生担当部分)なので、実体経済の動きに関する知識がないための誤解があるのではないだろうか。

 実は、7年前に読んだ当時は、こうした問題に気づかず、この議論こそ「財政出動が有効ではない」根拠として、もっとも説得力のある部分だと思っていたのだが、改めてこのように見ると、少なくとも財政政策と組み合わせられていないリフレ政策の有効性は疑問に思えてくる。逆に、財政政策こそが決定的ではないのだろうかと思える。

PS. この補足を「財政出動論2(なぜ財政出動論?)」に書いています。

 以上の議論の誤りにお気づきの方は、簡単で結構ですから、理由をぜひご指摘いただければ幸いです。

2010年10月3日日曜日

輸出立国政策は日本国民にとっては必ずしも良い政策ではない

関連:公共事業 重不況の経済学」 シェア半減の日本   《このブログ全体の目次
 財政出動論34輸出立国政策と企業の内部留保

 国際収支
 国際収支には次の式があります。
 経常収支黒字=資本収支赤字+外貨準備増減の増 
これが成り立たないと国際収支の帳尻が合いません。つまり、これは恒等式で必ずそうなります。
 これが何を意味するかと言いますと、国際収支の計算上、経常収支の黒字は資本収支の赤字(+外貨準備増減の増)で必ず埋められなければなりません。これは海外で稼いだ金のうち経常収支黒字分は必ず海外に吐き出す必要があることを意味します。
 言い換えれば、経常収支の黒字があるときは、必ずそれと同額を海外投資しなければなりません(外貨準備は、通常はドル預金で運用するか、米国債を購入して運用されますから、これも海外投資といえます。これを含めてです)。


2 輸出立国
 経済は、需要と供給で成り立っています。供給能力と需要が釣り合っていれば問題はないのですが、需要が長期にわたって不足している国があります。日本、中国などです。
 (需要は不足していないと断言する経済学派もあります。新古典派経済学の中心となっている「新しい古典派」あるいはその中の「実物的景気循環理論」を信奉する人たちです。「構造改革」の根拠はこの人たちが提供しました。しかし、ここでは、需要不足があるものと考えましょう。この見方は、基本的に主流派の見方だと考えますし、特に、この見方は今回の『世界同時不況』で広い意味で強化されたと考えます。)
 このとき、足りない需要を純輸出で補完している国があります(純輸出=輸出ー輸入」です。純輸出とは、簡単に言えば貿易黒字のことです)。純輸出が恒常的に黒字である国を、ここでは「輸出立国」の国と考えます。輸出立国の国とは、国内の需要の不足を輸出で補っている国ということになります。日本や中国はやはりこれに該当します。


 1国に貿易黒字があるときは、必ず他の国は貿易赤字になる必要があります。赤字国は、この貿易赤字分の輸入代金をどのようにして支払うかというと、貿易黒字国から借りるしかないのです。それが「資本収支」です。つまり、貿易収支の赤字は、資本収支の黒字で必ず埋め合わされる必要があります。
 それが、上で見た恒等式  経常収支黒字=資本収支赤字+外貨準備増減の増   の意味です。
(経常収支は、貿易収支に所得収支などを加えたものです。簡単にするために上では貿易収支で考えましたが、以上は経常収支でも成り立つわけです。)


3 貿易収支黒字をコンスタントに維持するということ
 貿易黒字国が赤字国に貸さないとどうなるかと言いますと、赤字国は貿易赤字分の支払いができませんから、貿易赤字を続けることはできません。すると赤字国はなくなってしまいますから、貿易黒字国も貿易黒字を続けることができません
 つまり、貿易収支黒字国は黒字を維持するためには、常に黒字分を赤字国に貸し付け続ける必要があるということです。

 輸出立国の国の企業と政府の合計でみると、純輸出分(輸出入の輸出超過分)だけ、海外資産が自動的に増えていきます。それは企業のB/Sの資産の部には載っています。しかし、国内に持ち帰ることも国内で使うことも出来ません。それは海外で使うしかありません。
 仮に企業が持ち帰ろうとすると、政府が輸出立国を維持するために(つまり円安を維持するために)、円高を防ぐためにドルを買い支えて外貨準備が増え、それは米国債などに投資されます。結局、差し引きでみると純輸出分(貿易黒字分)は国内には還流しません。輸出立国(貿易収支黒字)を続ける限り、黒字分は、永久に日本では使えず、海外で使うしかありません。・・・(厳密には経常収支で考える必要があります。ここではわかりやすく貿易収支で説明しました)


 国内で使えないということは、輸出企業全体に政府を含めた全体で見ますと、貿易黒字の分の輸出製品を生産するために使った労働力の賃金の支払いや株主への配当や銀行への利子支払いには使えないということです。つまり、国民は、貿易黒字の成果を受け取れないのです。
 つまり、経常収支の黒字分というのは日本企業の海外資産は増やしますが、それは日本国民にとっては使えないお金です輸出立国政策は、企業にとってはいいのですが、日本政府と国民にとっては内需拡大よりもはるかに劣る政策だと言えます。
 この問題の詳細は、今年(2010年)の10月末か11月に出版予定の本(『重不況の経済学』)で触れる予定です。

2010年9月25日土曜日

◎日本で、これまで散々公共事業をやってきたのに駄目だったのはなぜ?

                                         ・・・《このブログ全体の目次
 <以下は、アマゾンの三橋貴明氏のいつまでも経済がわからない日本人』書評欄の『間違っています。』という書評に対するコメントについて、さらに私がコメントした内容に若干加筆したものです。>

 この疑問は、すごくまっとうです。
 この疑問は、まさに1990年代末の日本の経済学者たちの頭を支配した疑問でした。たしかに効果がないように見えたのです。その結果、日本経済ではサプライサイド(供給側)に「構造的な問題がある」という考えを持つ新古典派、中でも、「新しい古典派」の「実物的景気循環理論の立場が、政治やマスコミに大きな影響力を与えるようになりました。

    その結果として、2001年に成立した小泉政権下で行われたのが構造改革でした。

    しかし、この『疑問(断定)』は多分誤りです。・・・公共事業に効果がないように見えたのには、別の理由があります。
 
    公共事業に効果がないように見えた理由は、90年代初頭のバブル崩壊で資産価格が大幅に下落し、企業はそれに関わる借入金を返済するために、利益や設備投資を削って借入金返済に資金を投入し続け、その結果、設備投資需要の縮小で日本経済には大幅な需要不足が生じたからです。

    資産価格の下落で失われた価値は土地と株だけで約1500兆円。これは日本のGDPの3年分にあたりますが、1930年代の米国の大恐慌で失われた価値が当時の米国のGDPの
1年分にすぎなかったことと比較すれば、その規模の大きさがわかります。

    したがって、この不良資産の処理には長い時間がかかりましたから、日本経済は長期にわたって巨額の需要不足状態が続いたのです。
   財政出動による公共事業は、その需要不足をある程度カバーし、大恐慌化する事態は防げましたが、常に少しずつ小さすぎたのです。

・・・というのが(日本では無視に近い状態でしたが)今年、米国で出版した本に、複数の 
ノーベル経済学賞受賞者が推薦文を書いたり、書評を書いたりで、いまや日本より海外で脚光を浴びているリチャード・クー氏の「バランスシート不況論です。

    ところが、日本では、実際は需要不足が原因なのに、これだけ不況が長引くのは「構造的問題」があるからだと考えて、構造改革というサプライサイドの政策がとられました。しかし
 、もちろん、残念ながら、これには効果はありませんでした。

    このことは、例えば、日本の一人当たりGDP順位が、まさに小泉構造改革期間中(2001-2006年)の5年間にOECD諸国内で3位から18位まで急落したことでもわかり
 ます。

  この日本の人口一人当たりGDP(=ほぼ日本全体の生産性です)順位の低下状況は、内閣府経済社会総合研究所のページをごらんください。
   これを見ると、OECD30か国の中で、1991年以降2000年まで、橋本改革時の1998年の6位を除いて、ずっと日本は2位~4位でした。それが2000年の3位を最後に、2001年から2006年の小泉政権期には、毎年順位を1~3位ずつ下げ、2007年には19位になっています。
   上下変動しながら、たまたまそうなったというのではなく、毎年一貫した低下のトレンドを描き続けてこうなったのです。


    一人当たりGDPとはほぼ「日本全体の生産性」を表しています。それが相対的にせよ下落を続けたのですから、構造改革に、他国並みに経済成長させたり生産性を向上させたりする効果がなかったことは明らかです

    たしかに、リストラなどで、一見企業の競争力は向上しましたが、それは、元々売上げ不足で企業内で有効活用されていなかった人材を、「企業外の」失業者に置き換えただけで、人材が有効に活用されないことは変わらなかったのです。リストラで「企業だけでみた生産性」は上昇しましたが、企業の外の失業者も含めた「日本全体の生産性」は(他の国に比べて)むしろ低下したのです。

   つまり、1990年代、2000年代に、製造業の労働生産性が高い伸びを示したのにその雇用が減少し、逆に生産性がほとんど伸びなかったサービス業が雇用を伸ばしたため、全体として日本の生産性の伸びが低くなっています。
   これは、厚生労働省の『労働経済白書(平成20年版)』(
第3章3節の215~218ページあたりで指摘されています。特に「第 3 -(3)- 2 図 就業者数と労働生産性の推移」)をご覧ください(リンク先は第3章第3節全体のpdfです)。

    需要不足下では、経済成長を制約しているのは需要であって、サプライサイドの要因、つまり資本不足でも、労働力不足でも、生産性上昇率の低下でもありませんから、生産性上昇率を高めるなどのサプライサイドの対策に効果がないのは当然でしょう。

    サプライサイドの対策に効果があるのは、需要不足を脱出してからのことです。2000年 
以降ずっと、需要対策という短期の対策よりもサプライサイドという長期対策が大事だと言い続けられてきましたが、10年経っても、一向に需要不足から脱出できていません。つまり、サプライサイドの対策が効果を現す場面は来ていません。

    サプライサイドの対策に効果があるのは、供給不足の経済状況下だけです。まさに日本はマゾ的な政策を続けてきたと思います。

2010年9月24日金曜日

通説化している「古九谷は伊万里焼」説の物証はねつ造だった

                                                   このブログ全体の目次

二羽 喜昭 著『古九谷論争の最期―神の手の贈物 伊万里説』 (時鐘舎新書) アマゾンに書いた書評です 2010/8/2  2011.5.5加筆

 偶然読んだが、十分説得力があるようにみえる。 

 古九谷は石川県九谷産ではなく、伊万里焼だったことがわかったという話は、聞いたことがあった。しかし、その有力な物証とされた伊万里での古九谷破片の発見が、ねつ造だったという(東北旧石器文化研究所のゴッドハンド事件のように)。 

 つまり、佐賀県有田の山辺田山窯跡遺跡の複数の「登窯」跡から、古九谷の色絵陶片が出土したことが古九谷伊万里焼説の有力な物証とされたのだが、第一に、「登窯」では色絵は焼けない(これが決定的)。第二に、色絵磁器片だけでなく色絵陶器片が「物証」に混じっている(古九谷は磁器)、第三に、年代的にまだ色絵が出現していない時期の登窯跡からも色絵片が発見された(これも決定的)。第四に、陶片は、いずれも地層ではなく「地表で」採取されている。 

 色絵磁器の制作工程は、1000度以上の高温の登窯で白磁を作り、それに絵付けをした上で再び800度くらいの低温の絵付窯(上絵窯)で焼いて完成する。傾斜地に築かれる巨大な登窯に比べて、絵付窯は低温で小さいので、登窯とは離れて(町場などに)置かれることが多い絵付工房に設置されることが少なくない。低温なので、失敗作もほとんどなく、陶片、磁器片が捨てられることもほとんどないという。 

 発掘調査報告書にも、当初は、後世の攪乱の可能性が高く疑わしいとして記載されなかったという。しかし、報告書の不可解な受取拒否(騒動)などを経て(登窯では色絵片が出るはずがないことを知らない人たちが強く出土の記載を求め)、6年後に色絵片出土を記載して公表された。文化庁は、公表と同時に、この遺跡を国指定史跡に指定した(文化庁も、伊万里焼説を強力に推した東京国立博物館陶磁室(当時。現在は廃止)も知らなかったらしい。お粗末)。 

 絵付の生産工程の知識のない誰かが絵付陶片(磁器片)を埋め、それが「発掘」されたのである。著者は、犯人は発掘関係者だと思っているようだ。

 著者は、東京国立博物館陶磁室をはじめとする伊万里焼説支持者たちが、こうした色絵磁器生産工程の知識がないなどとは、まったく思いもよらなかったために、当時は、彼らの主張の意図や論点が見えず有効な反論ができなかったと述べている。
 改めて今になって伊万里焼説支持者達の当時の論考などを見なおしてみると、彼らは色絵磁器の生産工程について知識がなく、登窯で色絵磁器は焼けないことをまったく知らなかったことがわかったという。
 注)なお、工夫をすれば、登窯でも絵付けした磁器を焼くことはできるという。し
  し、そうした手法が今日でも例外的であるのは、当然、理由があることだと著者は
  いう(仮に、そうした工夫をして焼いていたのであれば、それは技術史的にも興味
  ある事実となるはずのものであり、発掘によって証明されるべきだったろう)。
   また、上記のように「年代的にまだ色絵が出現していない時期の跡からも色
  絵片が発見され」ているが、これは、この登窯による色絵磁器焼成問題以前に、
  り得ないとであり、それは色絵片の一連の出土全体に疑義を生じさせる重大な問
  いうことになる。素直にこれを評価すれば、受け取り否をされた当初発掘
  調報告書案の「後世の攪乱」という評価が科学的態度とうことになるだろう。

 注)このように見ると、最終的に公表された発掘調査報告書は、科学的な検討手順を
  踏んで作成されたものとは認めがたく、学問的な価値がない、信頼できないものと
  いうべきように思える。・・・意図的なねつ造かどうかは別にして。
  (これは(上記のように)報告書の公表に際して明らかに不可解な動きがあっ
  と以前の問題である。)