2010年9月24日金曜日

通説化している「古九谷は伊万里焼」説の物証はねつ造だった

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二羽 喜昭 著『古九谷論争の最期―神の手の贈物 伊万里説』 (時鐘舎新書) アマゾンに書いた書評です 2010/8/2  2011.5.5加筆

 偶然読んだが、十分説得力があるようにみえる。 

 古九谷は石川県九谷産ではなく、伊万里焼だったことがわかったという話は、聞いたことがあった。しかし、その有力な物証とされた伊万里での古九谷破片の発見が、ねつ造だったという(東北旧石器文化研究所のゴッドハンド事件のように)。 

 つまり、佐賀県有田の山辺田山窯跡遺跡の複数の「登窯」跡から、古九谷の色絵陶片が出土したことが古九谷伊万里焼説の有力な物証とされたのだが、第一に、「登窯」では色絵は焼けない(これが決定的)。第二に、色絵磁器片だけでなく色絵陶器片が「物証」に混じっている(古九谷は磁器)、第三に、年代的にまだ色絵が出現していない時期の登窯跡からも色絵片が発見された(これも決定的)。第四に、陶片は、いずれも地層ではなく「地表で」採取されている。 

 色絵磁器の制作工程は、1000度以上の高温の登窯で白磁を作り、それに絵付けをした上で再び800度くらいの低温の絵付窯(上絵窯)で焼いて完成する。傾斜地に築かれる巨大な登窯に比べて、絵付窯は低温で小さいので、登窯とは離れて(町場などに)置かれることが多い絵付工房に設置されることが少なくない。低温なので、失敗作もほとんどなく、陶片、磁器片が捨てられることもほとんどないという。 

 発掘調査報告書にも、当初は、後世の攪乱の可能性が高く疑わしいとして記載されなかったという。しかし、報告書の不可解な受取拒否(騒動)などを経て(登窯では色絵片が出るはずがないことを知らない人たちが強く出土の記載を求め)、6年後に色絵片出土を記載して公表された。文化庁は、公表と同時に、この遺跡を国指定史跡に指定した(文化庁も、伊万里焼説を強力に推した東京国立博物館陶磁室(当時。現在は廃止)も知らなかったらしい。お粗末)。 

 絵付の生産工程の知識のない誰かが絵付陶片(磁器片)を埋め、それが「発掘」されたのである。著者は、犯人は発掘関係者だと思っているようだ。

 著者は、東京国立博物館陶磁室をはじめとする伊万里焼説支持者たちが、こうした色絵磁器生産工程の知識がないなどとは、まったく思いもよらなかったために、当時は、彼らの主張の意図や論点が見えず有効な反論ができなかったと述べている。
 改めて今になって伊万里焼説支持者達の当時の論考などを見なおしてみると、彼らは色絵磁器の生産工程について知識がなく、登窯で色絵磁器は焼けないことをまったく知らなかったことがわかったという。
 注)なお、工夫をすれば、登窯でも絵付けした磁器を焼くことはできるという。し
  し、そうした手法が今日でも例外的であるのは、当然、理由があることだと著者は
  いう(仮に、そうした工夫をして焼いていたのであれば、それは技術史的にも興味
  ある事実となるはずのものであり、発掘によって証明されるべきだったろう)。
   また、上記のように「年代的にまだ色絵が出現していない時期の跡からも色
  絵片が発見され」ているが、これは、この登窯による色絵磁器焼成問題以前に、
  り得ないとであり、それは色絵片の一連の出土全体に疑義を生じさせる重大な問
  いうことになる。素直にこれを評価すれば、受け取り否をされた当初発掘
  調報告書案の「後世の攪乱」という評価が科学的態度とうことになるだろう。

 注)このように見ると、最終的に公表された発掘調査報告書は、科学的な検討手順を
  踏んで作成されたものとは認めがたく、学問的な価値がない、信頼できないものと
  いうべきように思える。・・・意図的なねつ造かどうかは別にして。
  (これは(上記のように)報告書の公表に際して明らかに不可解な動きがあっ
  と以前の問題である。)