2011年8月1日月曜日

財政出動論18 現代経済学と自然科学の手法比較

    この項は、「財政出動論13(構造改革が必要なのは米国だ)」(平成23年2月20日)の中に書いたものを(落ち着きが悪いこともあり)独立させたものである。
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                                         23.8.5細々とした修正
    この頁をベースの一つとして新著日本国債のパラドックスと財政出動の経済学』(新評論。平成25年10月10日刊。 →→紹介ver.2紹介ver.1アマゾンを出版しました。


1 導入
 こうした問題を取り上げる理由は、今回の世界同時不況が現代マクロ経済学に与えた打撃に係わる。2008年ノーベル経済学賞受賞者の P.クルーグマンは、2009年の講義で過去30年間のマクロ経済学の大部分は「良く言っても見事なまでに無益で、悪く言えば積極的に害をもたらした」」と論じた。
  ・・英エコノミスト誌の記事から("What went wrong with economics" The Economist Jul 16th 2009)
 注1)この「過去30年のマクロ経済学」とは、新古典派経済学の中の「新しい古典派」、それを引き継ぐ
   (あるいそれに含まれる)RBC理論、さらにはそのRBC論に基礎を置くニューケインジアン
    経済学を指す。

 実際、上記の注1でいう現代マクロ経済学者」たちは、この世界同時不況を理論的に予測できるモデルや枠組みを持っていなかったし、その対策を検討し有効な対策を提言するために使える理論的枠組みも持っていなかった。
 したがって、政策の現場では、これら現代マクロ経済学者たちが嘲笑の的としてきたIS−LMモデル(〜いわゆる「どマクロ」)が専ら使われたのである。

 ローレンス・サマーズ前米国家経済会議(NEC)委員長(現ハーバード大)は、2011年4月9日のコンファレンスにおいて「DSGEはホワイトハウスの危機への政策対応において何の役割も果たさなかった、と述べた。流動性の罠を取り込んだIS−LMだけが使用された。」(himaginary氏訳)と述べた。
  ・・・ブログhimaginaryの日記から(「サマーズ「DSGEモデルはまるで経済政策の役に立たなかった」」
    2011-04-10)・・・次の出典も同様。

 また「彼のさらに厳しい評価が示されたのは、マクロ経済学に健全なミクロ経済学の基礎付けをしようとした膨大な研究は、政策当局者としての彼にとっては基本的に役に立たなかった、というコメントにおいてであろう。」(himaginary氏訳)
  ( 原文はThe EconomistのMark Thomaによるブログから
                      ("What the economists knew"Free Exchange Apr 9th 2011
 注2)DSGEモデル(「動学的確率的一般均衡モデル」)は、RBC理論を原型としたミクロ経済学的
   付けのあるモデルに、様々な仮定を導入することによって時間的な変化を考慮した動学的分析を
   行うもの。 古典派(RBC理論)も、ニューケインジアンも専らこれを用いる。

 以下、現代マクロ経済学がなぜ、こうした状況に陥ってしまったかについて考える。

2 経済学の研究手法の問題点 = 自然科学とは異なる研究態度

    第二次大戦後、供給中心の経済学が主流となってきたのは、現実の経済をよく説明できると考えられたからだ。それは、第二次大戦後の各国が、主に供給に問題のある(したがって供給不足)経済だったからだ。
 特に1970年代以後の米国ギリシャ開発途上国では、供給にボトルネックがあるから、供給中心の経済学がよく当てはまったのである。サンプルの中にこうした国々が多ければ、研究サンプルの多くが「供給に問題を抱える国」になるから、供給中心の経済学の説明力が高いことになる。

 問題は経済学の研究手法に潜在する問題(研究対象の偏りが引き起こす問題)を、経済学者が理解していないことだ。

(「例外」をどのように扱うか=自然科学との違い)
    現代経済学の研究手法、特に実証の手法は、統計的手法が中心である。ところが、統計的手法では、例外的現象は「外れ値」としてネグられてしまう。こうした統計的な手法の影響が極めて高いため、現代経済学では、頻度の高い現象だけを集めてモデルが構築されることになる。
    まずは、例外的現象を含まない頻度の高い現象から作られたモデルが構築され、それは当然、頻度の高い現象から生ずるサンプルで統計的に実証されることになる。
    大恐慌など例外的現象が重要な問題の場合、そのモデルに基づいて、例外的現象が解釈されることになるが、当然その基本モデルでは解釈できない部分が出てくる。そこで、その解釈出来ない部分を説明するために、アドホックに(極端に言えば「その場限りに」)様々な要因を追加して解釈しようと試みることになる。戦後の現代マクロ経済学の歴史は、そうした基本モデルでは解釈出来ない現象を、様々な要因を追加することで解釈する試みの歴史と言える。
    今回の世界同時不況の経験でわかったことは、結局、そうした試みは有効ではなかった(少なくとも、全く十分ではなかった)ということなのである。

    実は、こうした経済学の研究の方向は自然科学の研究の方向とはほぼまったく異なる。例えば、ノーベル物理学賞の受賞研究はすべて「例外」の研究である。最近の例では、南部陽一郎氏のノーベル物理学賞受賞理由の一つは「自発的対象性の破れ」に関するものだが、これはまさに例外的現象であるし、小林・益川両氏のノーベル賞受賞対象となった理論もCP対称性の破れという例外的現象の説明にかかわっている。自然科学は「例外」と「特殊」な問題にほとんどの資源とエネルギーを注ぎ込み続けている。そして、それが豊穣な成果を次々に人類にもたらしてきたのである。

 自然科学で、なぜ「例外と特殊」の研究が重視されるかと言えば、例外や特殊な問題を説明できない理論体系は正しくないと考えられ、それらを説明できる新たな理論が追求されなければならないと考えられているからだ(ところが、現代のマクロ経済学はそうではない。単に例外は「例外」として無視されるのである)。そして、自然科学では、例外の発見を踏まえて、例外を包含した新たな理論体系の構築が目指される。自然科学は、こうしたプロセスで理論を発展させ続けてきている。

    ところが、統計的手法が中心の学問では、こうした方向には研究が進みにくい。例外の無視こそ統計の本質とも言えるからだ。経済学は、まさにこの統計的手法に束縛されている。経済学は、数学を多用しているために一見自然科学に近いように見えるが、実は、それは、この意味では疑似自然科学というしかない。

 経済学が統計的手法を中心とする限り、例外は排除されるか、結果的に無視される。
例えば、分析の対象が米国やギリシャや、開発途上国が中心であれば、それらは、いずれも「供給側に問題を抱える国々」だから、その中に二、三、需要に問題を抱える国が混じっていても、分析結果は、供給側の説明力が高い結果が出てきてしまう。「ほら、やっぱり供給側の要因の説明力が高いじゃないか」というわけである。

    あるいは、通常発生している景気変動は、ほとんどの場合、在庫変動程度の軽い変動である。であれば、そうしたデータが大多数を占める現状の統計分析には、ちょっと利子率を操作すれば、景気刺激に効果があるといった経済モデルが当てはまりがよい。だが、30年代「大恐慌」や今回の「世界同時不況」そしておそらくは日本のバブル崩壊後の長期停滞は、こうした軽い変動とは異なるメカニズムが働いている可能性があり、それに係わる要因も軽い景気変動とは異なっている可能性が強い。ところが、それらは、数十年に一度しか発生しないために、統計的には例外現象になってしまう。つまり、統計的には抽出できない現象なのである(実際、M.フリードマンは経済学が数学的手法に頼りすぎることを危惧し、自らは歴史的手法を重視していた)。

    現代マクロ経済学は、こうした大恐慌などを、専ら軽い景気変動を説明する彼らのモデルで十分説明できる(はず)と主張してきたし、統計的に「実証してきた」はずだった。だが、それは今回の世界同時不況で、役に立つようなレベルのものではないことが改めて明らかになったのである。

    経済学が発展していくためには、例外を排除する研究態度は修正されなければならない。

3 科学の進歩とは理論体系の統合=「大統一理論」の出現の積み重ね

    今の世界同時不況や日本の長期停滞の説明は、需要を重視するケインズ系の経済理論が妥当する可能性が高い。しかし、このように状況に応じて適用すべき理論体系を取り替えることで終わりだと考えるべきではない

    自然科学では、こうした例外的事象を契機に理論体系の統合が行われ、まったく新しい包括的な統一的な理論体系が出現してきたのである。それを「統一理論」という。
    例えば、ニュートン力学は、ケプラーによって発見された「惑星の軌道が太陽を中心とする円軌道ではなく楕円軌道だった」という現象を説明するために、当時はまったく別の現象と考えられていた「ガリレイの落体の法則」と、「ケプラーの惑星運動の法則」を統合することで出現した大「統一理論」なのである。
         注)落体の法則は放物線軌道であり、惑星運動の法則は楕円軌道なので、幾何学的に見るとまったく別のもの
              に見える。実際、当時は、まったく別の、異質の現象であり、異なるメカニズムと見られていた。
                  ニュートンは、これに距離の2乗に比例する「重力」概念を導入することで、まず惑星運動の楕円軌道を導
              き、次いで落体の法則の放物線軌道が、重力一定(地球表面上では、地球の中心との距離がほぼ一定)とい
              う条件下での重力法則の近似であることを明らかにした(落体の法則は正確には放物線軌道ではなく、楕円
              軌道で説明すべきで、放物線は近似にすぎない)。

    また、アインシュタインの一般相対性理論も、慣性力と重力を結びつけ統合した理論体系と言える。これも統一理論なのである。

    自然科学の発展メカニズムに従えば、経済学でも、供給不足下と需要不足下の経済を等しく扱える理論体系が生まれるべきなのである。それは、供給側だけのメカニズムで経済を捉える経済学(新古典派系)でも、需要側だけのメカニズムで経済を捉える経済学(ケインズ系?)でもなく、その双方のメカニズムを整合的に取り込んだ経済学理論になるはずだ。

    しかし、過去30年、現代マクロ経済学は、統一理論を志向するのではなく、一方の(需要側の)メカニズムを排除し、根本的にはすべてをサプライサイドで説明できるとする前提(方向)で研究が続けられ、まさに「天動説」の周転円に周転円を重ねるような研究が続けられてきた可能性があると考える。

 注)ニューケインジアンは、RBC理論に「需要不足」を導入したが、その需要不足の原因としては、主に
       「価格の硬直性」が考えられている。しかし、それは供給者側の価格設定の問題であるから、やはり結局は
       サプライサイドの問題を扱っているのである。

  (以上の議論の詳細は、拙著重不況の経済学の末尾の『補論 フリードマン対ガリレオ』参照)