2014年2月28日金曜日

財政出動論30 三面等価の原則と付加価値と財政支出

改訂260305 政府支出と国民の評価等の関係について、1の(3)(6)に記述を段落レベルで追加(黒文字のところが、茶紫字になっている部分)。260301 均衡財政乗数の話などを追加

    藤井聡、飯田泰之両先生のやりとり(いわば「藤井=飯田論争」??)には、本質的な問題が含まれているように思いましたので、コメントをしてみます。関係するのは次の2件ですが、このうち飯田先生の②についてコメントします。
①「飯田泰之氏のVoice(2014年3月号)への寄稿論説について」・・・藤井聡京都大学大学院教授

    以下の内容のうち、飯田先生らの価値のとらえ方がGDPの三面等価に反するという問題については、himaginaryさんの日記の3月10及び11日にNDP(国内純生産)による解釈が提示されましたので、それについて新たに「財政出動論31 公共投資、設備投資の価値と三面等価を追加しました。
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   飯田先生は、この②で、二つの問題を論じている。
(1)政府の公共投資が無駄であるかどうかは「どの程度役立つ事業が 行われるか」に依存する。
(2)昨年来の入札不調や震災以来の土木建設業界の人手不足を見ると、土木・建設業界が短期的に供給制約状態(需要に対して供給が追いつかない状態)にある

    このうち(2)については特に異論がないので、以下では(1)について考えていく。この(1)は、結局、公共事業の効果は、それによって建設された公共施設等の価値しかなく、短期の経済対策としての効果はないというものである。
    なお、小野善康先生(大阪大学教授)も飯田先生と同様の議論をされているように思う(例えば小野『不況のメカニズム』第2章第3項(2007)、同『成熟社会の経済学』第2章(2012))。

    以下、1では、飯田先生の議論がGDPにおける政府支出の位置づけの議論からはじまっているので、それに沿って考えていく。ついで、2で不況対策としての公共事業の効果の問題を取り上げる(この2の議論は、拙著(「日本国債のパラドックスと財政出動の経済学」2013、新評論)に基づく)。

1 GDPの三面等価の原則と公共投資の関係

   飯田先生の議論は、三面等価の原則でみると混乱があるように見える。その議論のベースは、GDPを主に「付加価値」の観点のみで見ていること、またその付加価値とは、もっぱら使用価値であるように見える
    すなわち、GDPとは一国経済の「付加価値」の総和であり、公共投資が経済に付け加える「価値」とは、公共投資によって建設された土木施設などの使用価値的なものに限定されていると考えられている(ように見える)。この使用価値とは、長期的な効果である。すなわち、短期の不況対策としての効果はないとされる
    最初から公共投資の効果の範囲が(使用価値に)限定されるのであれば、不況対策としての経済効果が出てこないのも当然である。もっとも、これは誤解かもしれない。あらためて考えて見よう。

(1)「付加価値」とは「コスト」である
   付加価値がおおむねコストであることは、ミクロの企業レベルの付加価値の定義(次の2つの式参照)をみれば明らかだ。
    ①付加価値額=経常利益+人件費+賃借料+減価償却費+金融費用+租税公課
                                                                        ・・・・・・日銀方式(積上方式)
    ②付加価値額=売上高ー外部購入額    ・・・・・・中小企業庁方式

    ここで、①をみれば、経常利益以外はコストである。また、企業を独立した経済主体と考えると、経常利益のうち株主への配当も、別の経済主体である資本の拠出者(株主)に支払うコストとみなすことができる。また、経常利益のうちの(残る)内部留保も、最終的には(将来)、様々なコストとして使われるだろう。

    つまり、各企業の「付加価値額」とは、長期的には各企業段階で付加された「コスト」とみなしてよい。

    もちろん、コストをかけて生産しても、予定した金額では売れず赤字になるかもしれない。この場合、短期的には、「付加価値<コスト(但し仕入れを除く)」になる《注》。しかし、その企業は、次の期には、生産量を縮小したり、販売促進にエネルギーをかけて、付加価値=コストとなるように計画を調整していく。この結果、長期的には、おおむね付加価値=コストとなるだろう。
        注》事後的には常に付加価値=コストになるのだから、これは厳密には正しくな
            い。ここでは、①式の左辺=事後的な売上=事後的な付加価値と置き、右辺=
            事前の計画されたコストと置いている。特に右辺のうち経常利益は事前に計画
            したものを想定している。正確には事後の結果<事前の計画というべきかもし
            れない。

    これは、ある製品にある一定のコストをかけた場合、その製品の魅力でそれが売れ、掛けたコストを回収できるかどうかが重要だということである。コストを回収できない製品は、作られない。その結果「製品の魅力」と「コスト」はバランスすることになる。この「製品の魅力」には使用価値や所有の満足感などが含まれるが、これらの合計は結局「付加価値」に対応する。

    つまり、付加価値とは、その製品にかけてよいコストを表すと考えればよい。この結果、「付加価値」は、長期的にはコストに等しいし、個々の企業を集計した経済全体としては短期でもほぼコストに等しい。

(2)「付加価値」に意味があるのは「コスト」に意味があるからだ
    企業が製品を作り販売するコストとして、家計に労働の対価として賃金が、借入金の拠出者である家計に金融費用として銀行を経由して利子が、また株主である家計に配当が支払われ、政府に税金が払われるという形で、資金が様々なコストに分解され経済全体に還流していく。
    これは、その企業によって新たに付け加えられたコストだが、そのほかに他企業からの原材料や部品やサービスなどの仕入れがある。そのコストとして、下請けには仕入れ代金・原材料代が支払われる。受け取った下請けは、さらに従業員に賃金を・・・と、経済全体に資金が還流していく。そして、そうして分散された資金が「需要」を形成するための予算となって、企業製品の購入に使われる。

    経済を理解する際に「付加価値」で見ると経済の流れが見えにくいが、「コスト」で理解すると経済全体がよく見える。

(3)コストをかける意味があるかどうかを考えることの方が重要だ
    「付加価値」あるいはより広く「価値」に(経済学的に)意味があるのは、それが需要を生み出すものだからだ価値があるから、その製品は買われ(需要が生まれ)、その製品の価値を作り出すためのコストがまかなえる。

   重要なのは、ある製品にコストをかけた場合に、それをまかなえるだけの「需要」が生み出せるかどうかである。需要があるなら、企業は、それにコストをかけられ、そのコストは家計などにわたり(経済を還流して)再び製品の需要となる。

    ① 最終消費財の価値
    明らかに、「最終消費財は消費者さえ満足すればよい」のである。ゲーム機は、ひょっとすると社会に害を与えているかもしれないが、そのゲーム機が自分に与える効用に消費者が満足さえすれば、それは需要を形成し、そのためにコストを掛けて生産する企業を生み出し存続させると言う意味で経済的に価値がある

    ② 生産財(設備投資財)の価値
    設備投資を行うために必要な生産財は、製品の性能などの魅力だけでは売れないその製品を使って消費財などを生産し、それが売れる見込みが生じて初めて生産財に価値が生じる。すなわち「生産財の魅力・価値は消費財の需要見通しに依存する」。

    以上の2つは、GDP統計における付加価値の測定によって把握できる。付加価値は、対象となる財がどれだけの価格でどれだけ売れたか(すなわち②式の「売上ー外部購入額(仕入)」)で把握できる。

    ③ 公共投資「財」・・(ここでは公共投資で作られる財に資産も含めてこう言う)
    さて、公共投資「財」には、飯田先生のご指摘のように市場がないのだろうか。
    それはおかしい。発注者(政府=需要側)があり、受注者(建設業者=供給側)があり、取引が行われて供給が行われる。一見明確な市場価格がないように見えるかもしれないが、それは建設工事が一品生産であり受注生産であるからだ。大量生産品は見込み生産されるから、売れ残りは値下げされ価格が変動する。受注生産にはこんなプロセスはない。しかし、民間の市場財で、受注生産される財や受注生産で一品生産の財は無数にある。
    また、「無駄な公共投資」が行われても評価できないが、民間の財は市場があり、そこで価格が決まるから、その価格だけの価値がその製品にあるとされる。しかし、公共投資にも、発注者があり、受注者があり、取引があるのだから、価格は決まっている。価格は決まっていても、その「価値」は「価格」とは一致せず不明だということなのだろうけど、①、②では需要側が満足すればよいとなっている同様に、需要側である「政府」さえ満足すればよいと考えるのが「経済学的に」ないしは論理的に自然なのではないだろうか。
    これに関しては、「政府」の判断は「国民」の価値判断とは異なるかもしれないという論理が提示されている。・・・「政府」という独立した経済主体の行動は、「国民」という政治主体を導入して評価されるべきだというわけだ。
    たしかに、「企業」の設備投資の判断株主」たる「国民」の評価を受ける。株主は、企業の設備投資が気に入らなければ、総会で経営陣を罷免したり、株式を売却して(それは同時に株価を低める)株主の立場を去ることによって、企業の判断と株主の価値判断の一致が維持される
   しかし、同様に、政府」の行動も、選挙によって、「国民」による価値評価が加えられている。したがって、制度的には、政府の価値判断と国民の価値判断は一致ていると考えるべきだろう(もちろん、現実に乖離が生じるのも事実だが。かといって、両先生が提案されている考え方は、既存のGDP概念や、それに基づく経済学の基盤を本質的に掘り崩してしまうと思う《(6)参照》)。なお、政府と国民の評価の一致のためのこの制度が、企業と株主の関係のメカニズムと異なるのは、公共財の特性によるものにすぎない。
    本当はこれで終わりとしたいが(実際、そうなのである)、それでは納得されないだろうから、需要者たる「政府の満足」とは何かについて、さらに続けよう。

(4)『政府の満足』とは別に公共投資の価値を測定できるか
    まず、(政府の満足ではなく)住民のニーズから客観的な価値を測定できるかどうかを見ておこう。
    飯田先生の議論では、公共投資の価値は、住民アンケートなどによって、その公共投資などにどの程度払ってもよいかを尋ねるというWTP(飯田先生のページ参照)によって測られるべきだという。しかし、飯田先生は、それが公共投資に対して過大なニーズになる可能性を指摘され、結局、「推計」によるしかないことになるとされる。
    ここでは、この「過大なニーズ」に加えて、ここでは、むしろ公共投資が「過少供給」となる可能性についてふれておこう。
    そもそも、公共財とは民間のニーズでは過少供給になるような財であるはずだ。民意では(負担を考慮すると)必ずしも真のニーズが顕在化しない財を公共財というのだからだ。住民には、コストは明確に把握されやすいが、メリットには必ず見落としがあり、住民がすべてのメリット(やデメリット)を考慮することは普通はない。
    例えば、大都市圏への野菜供給産地は、かつての都市近郊のみから、高速道路網の発達と共に大都市圏からみて遠隔地に次々に移動していった。それによって都市住民は莫大な恩恵を受けている。その産地は、高速道路に狸が出るような地域にあることも多い。魚介類も同様である。WTPのような手法では、こうしたメリットは考慮されなかっただろう。
   こうした手法で建設の可否を評価していたら、東海道新幹線も建設されていたかどうか疑わしい。
   実は、こうした手法は、高速道路のようなネットワーク型の公共施設よりも、比較的利用者が限定される市民ホールのような施設にふさわしい。しかし、それでも、その調査がすべてのメリットをカバーしているかどうかは依然として疑わしい。
    例えば、市民ホールが一つあることで、近隣の他市町村の住民がそれを利用できて、周辺地域全体が恩恵を受ける。このときに、当該市町村の住民のみがホールの建設費を負担するのは不公平かもしれない。しかし、それは制度の問題でもある。市町村の区域は人為的なものであり、ホールの利用者の居住域とは必ずしも一致しない。そもそも、公共施設の利用者のエリアは、施設毎に異なるのである。だから難しいのは事実だ。しかし、それは制度的なものだから、変えることができないわけではない。あるいは近隣市町村から負担金を取ってもよい。
    また、仮にその市町村の住民だけが建設費を負担したとしても、近隣市町村の利用者が多ければ、そのホールを利用したイベントが採算的に成立しやすくなり、多様なイベント、催し物が開催されるようになるだろう。その結果、地元市町村の住民は、そのホールで開催される多様な催し物による文化的環境の恩恵を大きく受けることになる(しかも地元だから近い)。
    さらに、近隣市町村の住民がホールを利用すれば、それに伴って地元の商店街での消費も増えるかもしれない。これは、地域経済にプラスの効果がある。それは商店街だけのメリットに見えるかもしれないが、それによって商店が品揃えを豊かにできれば、地域の消費者にも恩恵が及ぶ。また、税収も増える。
    また、小野先生や飯田先生は認めないかもしれないが、そうした施設の建設には経済的な波及効果がある。これも、必ずしも住民は考慮しない。だが、そうしたメリットはあると考える。
    このように、住民が考慮しないメリット、考えもつかないメリット、小さいと考えて無視されるメリットが必ず残り、公共施設は過小投資となりやすい。すなわち、やはり、こうした方法による公共投資の評価には限界がある。もちろん、より使用価値の高い公共施設を選択する努力をすることは重要であり、その手法としては意味がある。
★もっとも、現実には、地方で文化ホールなどが過大投資であることがほとんどだということは認めよう。それは又、これとは別の制度的な問題が原因だ。


(5)公共投資における『政府の満足』
    さて、小野、飯田両先生は、公共投資の価値には、次の①の1つしかないという。しかし、やはり②があると考える。②に効果が実際にあるのであれば、それは政府を「満足」させるはずだ。
    ① 使用価値
    公共投資で作られた道路などの施設に使用価値があるなら、それだけのコストを掛ける意味がある。これは認めようというのが小野、飯田両先生だ。これはもちろんあるだろう。

    ② 不況対策としての効果
    これは、公共投資を行うこと自体によって、公共投資のコストとして企業に支払われた資金が賃金、利子、配当など、さらには外部からの仕入れ代金として経済を還流することによって需要を生み出す資金となり、需要を嵩上げしていくことで生ずる効果だ。
    この場合、まさに穴を掘って埋めるだけでも効果がある。

    もちろん、こうした不況対策としての公共投資の効果は、実証的に確認されるべきものである。ただし、90年代の公共投資の効果については、バランスシート不況のメカニズムによって、見かけ上の効果が吸収され続けたと考えるべきだ《注》。もっとも、近年は、飯田先生のご指摘のように、土建業者の廃業等によって供給制約が生じていることも事実だと考える。
        《注》次の(6)で整理するGDPの三面等価の原則で見れば、公共投資の増加
                による企業の売上の増加は、分配までは回っても、設備投資には投入されず、
                もっぱら、バブル崩壊で毀損されたバランスシートを回復するための借入金
                返済に回されたため、公共投資の増加は設備投資支出に結びつかず、したが
                って、次のサイクルで企業の生産は縮小の圧力を受け続けた。
                    企業は、バブル崩壊で生じた資産価格の下落で生じた不良資産を合法、脱
                法、非合法の方法で隠し続けたから当時の企業の財務状況を見ただけでは、
                その状況はわからない。その一端は近年のオリンパス事件で図らずも明らか
                になっている。

    さて、この①、②とも、「付加価値」としては簡単には把握できない。しかし、その財政支出の総額がそのまま需要形成に寄与していること自体に問題はない。経済を需要の積み上げとして見れば、財政支出額をそのまま追加することには意味があるのだ。つまり、GDPを付加価値で捉えるとわかりにくいが、需要(支出)の集まりとしてみると、現在の政府財政支出の計上には当然意味がある
    上で見たように、民間財で付加価値に意味があるのは、それがその価値に等しいだけの価格で購入するという需要を生み、それが、その価格までコストをかけることを許容させるからだ。とすれば、そもそも需要こそが重要である。需要の観点には本質的な意味がある。
    もっとも、財政支出の増額のための増税や公債発行が、家計の支出予算を制約して民間消費を抑制したり、民間資金市場を逼迫させて金利が上昇したりすると民間設備投資や消費が減少したりするかもしれない。しかし、その結果は、別途、消費や設備投資を計測すれば把握できるから、GDP総額の把握には問題がない(もちろん、財政支出の効果は、それらの財政支出によるマイナス効果を折り込んで計測されるべきだろう)。

(6)三面等価の原則と公共投資
    以上をGDPないしは国民所得の三面等価の原則に沿ってみてみよう。三面等価の原則とは、簡単に言えば、生産(付加価値)を積み上げた「生産面」のGDPと、各経済主体への分配を積み上げた「分配面」のGDPと、各経済主体の支出を積み上げた「支出面」のGDPの3つは、等しいというものだ。
    これを上記(1)の①式でみてみよう。①式は個々の企業の付加価値の式であるから、一国経済全体のGDPは、これをすべての企業(生産者)について合算すればよい。すると、①式の左辺を経済全体で集計したものは、付加価値総額だから、これは生産からみたGDPを表している。一方、①式右辺の集計はコストであるが、これは同時に各経済主体への支払先を特定するものになっているから、右辺の集計は結局、分配面のGDPにつながっている。そして、分配された資金は(細かくは、貯蓄が企業や政府に貸し出されて支出の主体が移動して設備投資や政府支出になったりというプロセスはあるが)支出される。その支出を合算したものが支出面のGDPとなる。
    ここで重要なのは、「三面等価」である。3つの面が等しいということは、分配にとって生産が予算制約になっていること、支出にとって分配が予算制約になっていること、生産にとって支出が予算制約になっていることを意味している。ここで、最後の「支出」とは、「生産」にとって「需要」を意味している(なお、上で見たように、これは需要を生めるような付加価値のある商品でなければ生産されないことを示してもいる)。つまり、これは、供給が需要を創造すると言う意味での「セイ法則」なのである。
    このように、三面等価の原則とは、付加価値、コスト、需要の一致を示すものでもある。したがって、仮に付加価値面でみて、財政支出の扱いに統計的な問題が仮にあるとしても、政府支出をGDPにそのまま加えることは、GDPの総額として問題はない。逆に加えなければ、三面等価が成立しない。支出面(需要面)では、明確に政府支出が計上されるのだからつまり、これ(飯田先生、小野先生らの説)は、既存のGDPの定義や三面等価の原則を否定し、ひいてはセイ法則を否定しているように見える。いかにこねくり回しても、この観点を既存の経済学体系等に接合することは、本質的にはできないように見える。
    例えば、政府支出を10兆円増加させたとき、(使用)価値が5兆円しかないから付加価値の増加は5兆円だということになれば、生産面のGDPは5兆円の増加になる。しかし、10兆円の政府支払いで分配面のGDPは10兆円増加している。もちろん、支出面のGDPも10兆円増加している。これらは生産面のGDPと一致しない。つまり、三面等価が成り立たない
    そもそも、「付加価値」という概念は、GDP統計上は、生産面のGDPを測定する際に、生産のダブり(他企業からの仕入れは他企業でも生産として計上されるから、その分を除外しないと生産はダブりとなる)を排除するロジックとして必要とされるもので、GDP統計上は、(極端に言えば)「価値」自体にそれほど意味はない。
    もちろん、それは定義の問題だから、新たな定義を与えられてもかまわないが、それはGDPとは無関係の概念、枠組みだ。

    ・・・このように考えると・・・小野先生、飯田先生の議論は、付加価値という観点だけに限れば一つの考えだろうがセイ法則GDPの三面等価の原則が機能する問題・枠組みとは異なる方向を向いており、ある意味で、セイ法則を満たさない・・・あるいは満たすかどうか考慮しない方向を向いているように見える(小野先生は『不況のメカニズム』(2007、中央公論新社)pp.71-74で「国民経済計算の欠陥」と表現しておられる。だが、これはすべてを「価値」で見ているために、そう見えるのだと考える)。
    そうした観点は、経済学を根底から覆す議論であり、既存経済学体系、就中RBCやDSGEの基盤を掘り崩すことにすらなるように見える。
   なお、以上の議論は「セイ法則が常に成立するということを主張したいわけではない。この問題は、セイ法則が常に成立するかどうかを議論する共通の枠組み自体を破壊する議論だと考えられるということである。

    ちなみに、この三面等価の原則でGDPを見ると、一見、経済成長が出てこない。この経済成長がどのように生じるかであるが、第一貯蓄の取り崩しによって、三面等価の予算制約を超えて設備投資が行われ得る(貯蓄の取り崩しで消費が拡大する場合もある)。第二銀行の信用創造である。銀行は、三面等価の予算制約を超えて自ら資金を創造し、企業等に貸し付けることができる(このほかに第三に、生産性の向上がある。企業の設備投資による生産性の向上や熟練などによって生産性は上昇し、同じ予算制約(コスト)下で生産数量が増加する。すると、供給増加に伴って物価が低下し、実質成長が実現する)。これらによって、経済は三面等価の制約を超えて成長を行うことができる。
   このように貯蓄の取り崩し等で三面等価を破って成長ができるなら、逆に(それと対象に)貯蓄の積み増しで、三面等価が破れてGDPが縮小することもあり得ると考えるのが自然だろう。私の理解では、それが「不況」のメカニズムに係わっていると考える。
    しかし、現代マクロ経済学では、こうしたことはないことになっている。貯蓄はすべて企業に借りられ、設備投資に使い尽くされることになっているからだ。それは正しいのだろうか。では、なぜ貯蓄がGDP成長とは無関係に肥大化するのだろうか。下の図の金融資産残高の対名目GDP比率の推移は、世界の金融資産残高がGDPの伸びと離れて肥大化していることを示す。つまり、この間で名目GDPは4倍程度になったに過ぎないのに対して、金融資産残高は12倍程度になっている。これは、金融の技術革新だけでは説明できないと考える。
    なお、実物資産については「各種資産規模の対GDP比の、この 20年間の推移をみると、実物資産が一定の値で安定して推移している・・・」(『通商白書200813頁)とされており、当然ながら金融資産のような肥大化はない。

                注)最初の1980年と1990年の間のみ間隔が10年、他は5年間隔になっている。

    つぎに、(5)の②の「不況対策としての財政支出・公共投資の効果」については、それが民間消費や設備投資を圧迫するかどうかを含めて、次の2で、拙著の観点から論じてみたい。

2 需要不足下の財政支出と需給均衡下の財政支出の効果は異なる

    拙著では、財政支出の効果は、財市場の「需要不足下」と「需給均衡下(〜需要超過下)では大きく異なると考える。それは財の需要不足は、財市場だけでなく、資産市場にも影響を与えると考えるからだ。
    しかし、小野先生、飯田先生の議論では、財市場の需要不足の存在は認めるが、財市場の需要不足が経済(特に資産市場)に与える影響の重要な部分を折り込んでいないように見える。
    財・サービス市場に需要不足があるなら、それ(財の需要)に使われなかった資金は、(財市場から漏出し)資産市場に流入すると考える。これはワルラス法則を考えれば当然のことだ。

    この説明のために、はじめに、ワルラス法則の意味を(1)で整理し、ついで(2)以降で不況対策に関する財政支出の効果について考えよう。

(1)ワルラス法則について
    ワルラス法則とは、財・サービス市場、土地市場、貨幣市場、債券市場、労働市場などの各分野の(さらに細分化されたテレビ市場とか自動車市場など)の無数の市場の需給をすべて合算すると、全体として需給は均衡しているというものだ。
    例えば、ある一つの市場(例えば財市場)で需給が均衡せず需要不足だとすると、それ以外の市場の合計では、それ(財市場)と同規模の需要超過があることになる。つまり、それを全部足すと需要不足(あるいは需要超過)は常に消えてしまうというものだ。
        注)これに対して、ワルラスの「一般均衡」とは、多様な多数の個々の市場すべ
            てがそれぞれ需給均衡にある状態を指す。(「ワルラス法則」が全市場を合算
            すれば合計で需給が均衡しているというのに対して)「一般均衡」は、すべて
            の市場それぞれ独自に需給均衡しているという状態である。現代の新古典派
            経済学は、この一般均衡をベースに基本理論が構築されている。

               一方、「セイ法則」は、ワルラス法則と同様の意味で使われることもあるが、
           拙著では、「財・サービス市場」を合算すれば需給が均衡するという法則を指
           すものとして使っている(つまり財・サービス市場全体に限定したワルラス法
           則がセイ法則)。

    ここで、ワルラス法則は、ワルラスの「一般均衡」よりも、さらにはセイ法則よりも、成立するためのハードルが低い。実際、これは、会計式のようなものであり、ず成り立つと考える。
        注)これに対して、セイ法則や一般均衡は、様々な条件や仮定を加えることでは
           じめて成り立つことが証明できるものだ。逆に言えば、そうした条件や仮定が
           満たされないなら、成り立たないことがある。
               特に時間が問題である。仮に最終的に一般均衡が成り立つとしても、成り立
           つまでに10年かかればどうだろうか。その間は一般均衡が成立していない状
           態が続く。実際、リーマンショック後、例えば、米国経済は、5年経っても財
           市場では需要不足があると認識されている。日本の長期停滞も同様だ。
    そして、実際のところ、セイ法則が成り立たないことがあることは、おおむねのコンセンサスといってよい。まして、一般均衡が成り立たないことがあるのは当然だろう
    だが、現代マクロ経済学は、一般均衡が成り立つ状況(これを「長期」という)を基本モデルとして構築されている。それは当然に現実の経済とは乖離がある。乖離がある状況(これを「短期」という)を説明するために・・・乖離することを説明する補足的付加的なメカニズムや要因を基本モデルに付加することで、現実の経済を説明するという枠組みで現代マクロ経済学は組み立てられている。
    だから、経済学者の頭の中には、常に一般均衡を前提とした経済理解が詰め込まれている。財に需要不足があることは理解されても、それ以外の経済現象の理解は、一般均衡をベースとした理解が埋めている。この意味で、財の需要不足の影響は十分に把握されないままになっている(一般均衡にもとづく理解で代替されている)と考える。
    一般均衡状態からの外れが軽微なものならそれでもいい。ところが、少なくともリーマンショック後は、大きな乖離が長い期間にわたって続いている。この枠組みは限界に来ていると思う。このため、拙著では、ワルラス法則まで戻るべきだと言っている訳である。

(2)ワルラス法則を資金で見る
    さて、ワルラス法則はなぜ成り立つのだろうか。そのメカニズムを考えよう。
    まず、あらためてワルラス法則とはある市場で需要不足があるとき、それ以外のどれか一つの市場あるいは複数の市場の合計では、それと同額だけ需要超過がある、したがって、全市場を合算すると需要不足は常に存在しない(=需給が均衡している)というものである。

    では、なぜ、ワルラス法則が成立するのだろうか。ある市場で需要不足があるときに他の市場(1つあるいは複数の市場の合計)で、それとちょうど同額の超過需要がある(=ワルラス法則)というなら、これらの市場間を繋ぐものが必要である(そうしたものなしに、ワルラス法則が成立するというなら、それはオカルトである)。

    それは、単純に市場間を購買力が移動していると捉えるのが自然だろう。貨幣経済では購買力の移動の媒体は貨幣、資金である。ある市場で、需要として使われなかった資金が他の市場へ流入することで、流出元の市場では需要側の予算制約が生じて需要不足生じ、流入側の市場では需要側の予算制約が緩められて予算が増加し、超過需要生ずる。

    注》なお、ここで、「需要不足」とは何か、それをどの範囲まで見るかを整理して
        おこう。少なくとも、以下の3つの状況では、それを需要不足と捉えるべきと考
        えている。
       ① まず、もっともわかりやすいのは、生産量と販売量の不一致である。売れ残
           りが出て、GDP統計では在庫の増加(予期せざる増加)として把握される。
           しかし、一般に、企業は、売れ行きが不振であれば生産数量を調整するから、
           これは最小限に抑えられる。
       ② 次に、企業は販売価格を値下げして売り切ろうとする。これによって売れ残
           り数量はゼロになるかもしれない。しかし、企業は、その生産のためのコスト
           は支払い済みないしは契約済みである。設備投資のための借入金の元利返済も
           固定している。この結果、値下げによる販売収入がコストを回れば、数量的
           には売り切れても、おおむね赤字分は需要不足があったと考えるべきだろう。
       ③ 供給能力に対して生産量が少ない状態がある。生産能力の稼働率が低い状
         である。このときでも、企業は、製造設備整備のためにに行った過去の投資の
          ための借入金の元利返済負担は変わらず支出しなければならない。また、需要
          が回復したときのために、人員を抱えていれば人件費の負担もある。この結果、
          実際に数量的に需要供給が一致していても、需要と供給能力のバランスは崩
          れていて、企業は、コストカットを続け、雇用を削減し続ける。こうした状況
          は不況であり、需要不足であると捉えるべきと考える。この場合も、需要不足
          の規模を計算することも可能と考える。
       
    現実に合わせて考えると、財市場に需要不足があるなら、そこで使われなかった資金が貨幣市場や債券市場などの資産市場に流入すると考えられる。
   どの市場(資産市場)に流入するかは環境が規定する。信用危機時には強くリスク・不確実性が重視され、流動性の高い貨幣市場特に現金に資金がもっぱら流入するだろう。一方、信用危機がおさまった後も不況が続き(=現状)、需要の回復が期待できない停滞時には、緊急の場合には比較的容易に換金できるように、ある程度流動性が高くて、かつ金利収入が見込める債券市場に資金は流入するだろう。さらに需要の回復が期待できるようになれば、リスクは高いがリターンの大きい株式市場に資金が流入するだろう。また、信用危機への不安が完全に癒えて資金が潤沢であれば流動性の低い土地市場にも資金は流入する。
    今は、おおむね②の段階にあると考えられる。不況であり、需要の回復が悲観的な状態では、このように債券に超過需要が生じて債券価格は高止まりし、金利は低下する。金利の低下は日銀の金融政策だけによって支えられているのではない。不況だからである。

    不況期に、資金が貨幣市場や債券市場に滞留して、貨幣の流通速度が低下している状況については、拙著(「日本国債のパラドックス・・・」)第5章または、次のページ=「貨幣流通速度と不況期資金余剰」参照。

(3)財市場で需要不足があるとき
    以上のように、財市場に需要不足があるなら、債券市場に(財市場の需要不足に相当する)資金が流入するため、債券市場の資金は潤沢であり、金利は低下している
   したがって、
    ① 日本国債のパラドックス 政府が財政支出のために巨額の公債を発行しても(発行額が財市場の需要不足の範囲内であれば)それが金利の上昇をもたらすことはないし、公債の発行は安定している。毎年、財市場の需要不足に応じた巨額の資金が債券市場に流入を続けているからだ。
    ② クラウディング・アウト 同様に、政府が財政支出のために巨額の公債を発行しても、それが民間の資金調達をクラウド・アウトすることはない。
    ③ マンデル=フレミング効果 政府が財政支出のために巨額の公債を発行しても、それが金利を上昇させたり、国内の資金不足をもたらすことはないため、(投機は別にして)海外資金が流入する理由はなく、したがって、自国通貨高によって輸出が打撃を受けることもない
    ④ リカード中立命題 リカードの公債中立命題により、公債発行で民間経済主体が将来の償還時の増税を予想して貯蓄を増やして消費を減らすというバローの議論は誤っており成立しないと考える。だが、財政出動のために公債で民間の資金を吸い上げれば、その時点の民間に予算制約をもたらす。したがって、この意味で、公債と増税は等価であると考える。
    しかし、それは、バローが考えるように、将来の公債償還のための増税を予想して貯蓄を積みますから生じるのではほぼない。単純に、民間の資金が吸い上げられることによって、その時点で民間の予算制約(消費や設備投資)が強まるからだ。これを、リカードやバローの中立命題と区別するために、拙著では仮に「マクロ的中立命題」と呼んでいる。

    ここで、財市場で需要不足がある状態で考えると、バローのリカード中立命題とマクロ的中立命題には大きな違いが生ずる拙著の観点では財市場に需要不足があるとき、そこで使われなかった資金が貨幣市場や債券市場に流入しているため、資金は余剰状態にある。したがって、資金余剰の範囲内で公債が発行される限りマクロ的中立命題は機能しない。これに対して、リカード中立命題で、資金余剰下でも貯蓄が増加して消費が減少することになる。
    では、現実にはどうか。日本や欧米諸国の状況を見る限り、リカード中立命題が働いているとは考えられない飯田先生も、近年の日本では働いていないとされている

   なお、中立命題関連については、拙著「日本国債のパラドックスと・・・」第4章または次のページ「リカード中立命題と負担の次世代先送論」の後半を参照。
   以上により、財市場に需要不足がある場合、財政出動は、その効果を相殺するような問題を引き起こさないから、財政出動の効果は大きいと考える
 ただし、以上は、財市場に需要不足がある場合である。これに対して、財市場が需給均衡下にある場合、あるいは超過需要下にある場合に、政府が公債を発行して財政支出を増やせば、①②③のいずれも、上記とは逆になり、財政出動の効果は相殺されてしまう。また、④の場合もマクロ的中立命題は、リカード中立命題と同様の方向に機能し、やはり財政出動の効果はこの面でも相殺される。

    均衡財政乗数
    これを「均衡財政乗数」のメカニズムで見てみよう。財政出動を行うために増税で資金をまかなう場合、増税による負の乗数効果が財政出動の乗数効果をちょうど相殺するから、結局、財政出動の効果は、増税による消費などの減少の効果で打ち消され、はじめからなにもしないと変わらない(均衡財政乗数=1)というのが、均衡財政乗数の議論である。
    だが、財政出動のための資金として、消費や設備投資に影響を与えない資金が存在れば、資金調達に伴う負の効果はない。財市場の需要不足下では、そうした消費や設備投資に影響を与えない資金が存在するというのが上記の考え方であり、それを吸い上げる方法として、公債の発行があると考える。

   つまり、需要不足下需給均衡下の財政支出の効果は異なり、その意味で非対称だと考える。財市場の需要不足下では、その需要不足に対応する額の資金が債券市場等に流入を続けるため、財政出動の効果は阻害されず、効果は生じる。

    建設業の事業執行能力
    ただし、現在の日本は、過去に長期にわたって公共投資を縮小してきたため、急に公共投資で景気対策を行おうとしても、建設業の事業実施能力が低下していることは事実かもしれない。政府は公共投資を標的にして機会さえあれば徹底的に絞るというレジームが、建設業界にも浸透し定着してきているのである。
    私は地方の人口3万人余りの町に住んでいるが、先日近所の法事で、そこの家から土建屋に嫁に行った娘(おばちゃん)が、この町でも比較的手広くやっていた5,6社がここ数年で廃業したと指折り数えて語ってくれた。自分の会社も、社長以下従業員の給与カットや社長個人の貯金をつぎ込んで細々と生きてきたが、ようやく競争相手が潰れ、アベノミクスの多少の効果で息をつけるようになったけど、ピーク時の6割くらいに減った従業員を増やすつもりはないと言っていた

    公共投資にも必要なレジームチェンジ
    公共投資が景気対策として機能するためには、飯田先生が言われるように、中長期の公共投資計画を示して、業界の見通しをある程度安定化する必要があると思う。長期の公共投資の縮小によって、現在の日本では、景気対策の手段としての公共投資の機能が失われているのである。不況対策としての財政支出が効果を持つにもレジームチェンジが必要なのである。
    アベノミクスの第一の矢(金融政策)で円安による輸出(外需)による回復が機能していない一方で、第二の矢(財政政策)で公共投資(政府需要)による回復も十分ではない。日本は少なくとも足下では、景気回復の手段のうちもっとも有力な二本を使えない状況にある。