2015年10月14日水曜日

New Economic Thinking 12 「需要不足」とは(←→需給均衡)

〜財・サービス市場の需要供給関係における「需要不足」とは何か〜

改訂:271026 些細な修正(タイトル修正。1の(1)の括弧内追加)

    拙著『日本国債のパラドックスと・・・』、「New Economic Thinking11」「New Economic Thinking10」「New Economic Thinking2」などでは財・サービス市場の「需要不足」という概念を普通に使ってきた。需要不足とはなんだろうか。参考として以下では、(財・サービス市場の)需要と供給の関係から、需要不足とは何かを改めて整理してみる。

1 供給とは何か
    まず需要」とは、購買力(お金)の裏付けのあるニーズをいうと考えるのがまあ順当だ。では「供給」とは何だろうか。

(1)取引ベースで(需要と)供給をカウントする場合
    まず、これを取引ベースで考えて見よう。取引が行われれば、売る者がいれば買う者も必ずいる。だから、取引が決着した段階あるいは交換ベースで考えれば、常にセイ法則どころか一般均衡も成立しているといえる。
    しかし、この定義では、需要不足は存在しえないことになる(一般均衡を証明しようとした19世紀のワルラス、あるいは1950年代のアロー=ドブリューの業績とは何?ということにもなってしまう)。いずれにしても、これは、政策的な対応が必要と考えられる「不況」を把握する概念としては価値のない定義である。不況を扱えるようにするための定義はこれではない。
    なお、需要不足が存在することは、主流派経済学者にも、おおむねコンセンサスがある(一部の有力だった学派が否定しているにしても・・・その学派は、リーマンショックで支持が激減した)。

(2)生産ベース供給をカウントする場合 
    取引の前には「生産」する必要がある。この「生産」と、取引ベースで把握される「供給」は完全にイコールではない。取引が成立しマネーと交換される財・サービスと、生産される財・サービスの量は必ずしも一致しない。
    取引が成立した財・サービスの供給量(=取引ベースの供給)と、生産量に乖離がある場合、例えば生産過剰の場合、それは「(意図せざる)在庫」の増加として(GDP統計などに)現れる。つまり、こうした売れ残りは、ミクロの企業単位では常に発生しているし、経済全体で見たマクロでも、GDP統計で見れば、意図しない在庫の変動として把握出来る。
    現実を見れば、経済全体の合計でも在庫変動が発生し、それは景気循環とある程度連動している。これは、財・サービス市場全体としても、しばしば「需要不足」が発生していることを示しているここではじめて需要不足が出てきたわけだ
        注)なお、このとき、購買力の原資として使われなかった(需要不足に対応する)
           マネーはどうなっているのだろうか。この問題を扱っているのが拙著『日本国
           New Economic Thinking10」「New Economic Thinking2」などである。

(3)生産体制(生産準備段階のコストを考慮した)ベースで供給をカウントする
    しかし、不況を引き起こすアンバランスは、これだけに止まらない。
    企業が意図せざる在庫が発生しつつあることを認識すれば、当然、合理的な企業は、生産数量を調整するために、生産設備の稼働率を下げ、労働投入を削減(最初は時間外労働の抑制から始まり、雇用の調整に進んでいく)し、原材料や中間財の発注量を縮小していく。これは、現代企業では広く見られることだ。
    これは労働需要を低下させるし、原材料や中間財生産企業の売上の減少に結びつく。また、目の前の需要量低下は、一般に企業の需要の将来見通しを引き下げさせる。それが低下すれば、必然的に企業は設備投資を縮小する。これは設備投資で購入されるはずの生産設備製造企業にとっては、需要が縮小することになるわけである。
  
    また、生産縮小が間に合わなかった分を中心に、企業は販売価格を下げ売り切ろうとするかもしれない。仮に売り切ったとしても、問題はある。(名目)売上収入総額が減少するからだ。さらに、ミクロの企業では、生産のための設備投資雇用契約原材料や中間財の発注契約は、一定の売上金額を想定(計画)した上で、契約が行われる。
    ところが、(生産の前提としていた)計画未満の単価でしか販売できないとなれば、企業は、原材料や中間財の発注数量と単価を切り下げ、賃金や雇用を削減するなどの対応を取る。
    これによって販売単価の低下に100%合わせてコストも削減できれば、実質的には、マクロ的な一般物価の下落となり問題はないように見える(名目売上は下がるが実質売上は維持)。しかし、この場合でも、業種による需要変動の差などの存在によって様々なあつれきが生まれるだろう。
    さらに重大な問題は、設備投資のための資金の元利返済負担は、名目の売上総額が縮小しても変わらないことである。設備投資のための元利償還負担の上昇は、他の支出(新たな設備投資、賃金、配当など)を圧迫する。
    これは、企業の資金的余裕を狭め、新たな設備投資、企業消費その他の支出を縮小させる(アーヴィング・フィッシャーの負債デフレーションのメカニズム)。資金的余裕の低下は、雇用や原材料・中間財コスト圧縮に対する圧力として働き、賃金や雇用、下請け企業への発注単価は、必要以上の圧縮を強いられることになるだろう。

   なお、需要の減少に対して、(価格の低下ではなく)生産数量の縮小で対応しても、名目売上総額が縮小することは変わらないから、借入金の元利償還負担の割合は上昇し、やはり負債デフレのメカニズムは働くことになる。

  以上のように、取引ベースで需要と供給が一致していても数量調整によって生産ベースで生産と需要が一致しても、また価格調整によって生産と需要が一致しても不況的現象が発生しうる。

2 「供給」とは「供給能力」と考える

(1)このブログなどにおける需要不足に関わる「供給」の定義
    以上から、需要不足を考える際の供給とは「供給能力」のことだと考えてみよう。生産者は、自社の供給能力を具体化するためにあらかじめ設備投資を行い、労働者を雇用している。また、原材料や中間材については事前に供給契約を締結している部分も少なくない。
    設備投資は過去に資金を調達して実行済みであり、資金の元利償還負担支出は、基本的に固定されている。賃金や雇用契約あるいは原材料や中間財の供給単価などは、簡単には変更できない場合も少なくない。
    こうした中で、その供給能力に見合う名目計画売上額が実現できない見通しが生じた場合には、企業は、生産数量を縮小し、単価を下げる過程で、設備投資の抑制、雇用や賃金の抑制、原材料、中間財の発注の縮小など様々な不況的な現象を引き起こす

    こうした理解は、潜在的な供給能力を示す「潜在GDP」とリンクしている。つまり、これは、不況の指標の一つと言えるGDPギャップ(あるいは「需給ギャップ」(=|潜在GDPー実現したGDP|))概念とリンクしているのである。
        注)ただし、こうした観点で見た「需要不足」と「GDPギャップ(需給ギ
            ップ)」の実際の算定方式(算定機関により異なる)のロジックが完全に一
            致しているわけではない。

(2)マネーの循環でみると「供給能力」で問題をみる意味がわかりやすい
    この定義の意味を、マネー(貨幣)の循環で見てみよう(つまり、セイ法則をマネーの循環で捉える)。まず、セイ法則が成立しているとき、財・サービスの生産・分配・支出に関わる取引で使われるマネーは、そのプロセスでは規模を変化させず循環を続ける。

        注)なお、そのままでは成長のない経済である。成長が生ずるには、生産性の上
            昇のほか、企業、家計、政府(及び海外)が貯蓄を取り崩すか、あるいは負債
            増加させることで、この資金循環にマネーを投入すればよい。そのマネーは、
            融システムが、信用創造によって創出する。

    次に、財・サービス市場で需要不足が存在するとき、つまり、セイ法則が成立しないときには、循環しているマネーの一部が財・サービス取引に使われないことになる。その結果(財・サービスの需要(の代価支払い)として使われないマネーが発生することになるから)財・サービスの需要が減少することになる。このように理解すると、上で見た、「生産体制(生産準備段階のコストを考慮した)ベースで供給をカウントする場合」の需要不足」の定義の有用性がわかりやすい。GDPギャップ(需給ギャップ)との関係もわかりやすい。

    以上を踏まえると、セイ法則の需要と供給の一致に関して、「供給」とは、生産設備や労働者などの生産組織が生産可能な量(潜在的な「生産能力」=供給能力)を指すものと考えるのが現実的であるようにみえる。
    このシリーズでは、供給能力と需要を比較して、需要不足を捉える。この場合、セイ法則の「需要と供給の一致」とは、このように、おおむね「需要」と「供給能力」の一致を指す。

    拙著『日本国債のパラドックスと・・・』、「New Economic Thinking11」「New Economic   Thinking10」「New Economic Thinking2」などでは、このような意味で「需要不足」を捉えている。
    なお、こうした理解は、特殊なものではない。